何かあったら言ってね
「何かあったら言ってね」の何かとはなんだろうと思う。例年より冬らしくない12月のぬるい空気に包まれながら考えていた。
私は相手の気持ちがどうこうというよりも、自分が大切な人間だ。何かを発言し、行動する時も、“自分がそう思っているから”だったり、様子を伺うのも、相手に“自分がどう思われるか”だったり。冒頭の台詞を言われた時には後者を強く感じる。
つらつらと書いてみたが、やはり人から嫌われたりマイナスイメージを持たれることが苦手だ。それを吹っ切れることができたら、もっと足取りも軽くなるのかもしれない。
音楽が消えた
イヤホンをつけても曲を流し忘れて、最寄りに着く。前にあった、そんな出来事に私はショックを受けていた。今は、イヤホンをつけることさえもしなくなった。
どんな気分の時にも、いつだって音楽を聴いていたのに。長い通勤時間。当たり前だった。
音楽がきらいになったわけじゃない。
なんならすきだ。
ただ、そんな気持ちになれない。
何が一番嬉しいかって睡眠。その次に食事。
忘れられない人
誰にでもいると思っている、忘れられない人。人それぞれの理由はあれど、今日はわたしの忘れられない人が、なんで忘れられないのかを振り返る。
まず、わたしの忘れられない人は、元カレだ。この時点で、まだ好きなんじゃん、と思う人がいると思う。そうかもしれない。思い出を美化して過去にすがってるだけかもしれない。まあどちらにせよ整理して、一旦片付けておきたいのでアウトプットさせていただく。
思い出を美化してるから
あん時は若かったな〜とか語り出しちゃう思い出って鮮明に覚えてる気がする。そして、鮮明に覚えていると勘違いして、本当はそんなことないのに勝手にあれこれ記憶が改変されていることもある。自分の気持ちさえも脚色しちゃってるみたい。残念なことも正当化させたくなっている模様。
新たな自分を見つけたから
たとえば、服のテイストが変わったとか、映画を観るようになったとか。コーヒーが飲めなかったのに飲めるようになったとか。今まで気づかなかった自分の興味が引き出されたり、出来ないことが出来るようになったり。そんなこと。ただ、人と関わっていく上で新たな自分を発見し続けるのは当たり前な気がするので、思い出を美化しているのも少し入ってるかも。もっといろんな人に感謝しよう。
一緒にいて楽だったから
繕ってるという感覚がなかった。と、今この一文を文字にして若干の違和感を覚えた。いや、繕ってたかもしれない。ただ、一緒にいる時間が心地よかった。
失礼ながらもペットを買う時もそうなのかなと。ペットを飼ってて愛着が湧いて、一緒にいるのが当たり前になって、心地よくなるっていう。長い期間一緒にいればそりゃ楽だよねという。そのプロセス大事にしたらどんな人も楽になれると思う。
顔がタイプだったから
結局のところ顔。周りのみんなが私に「好きそうだよね」ってしきりに言ってくるような顔をしてた。ココが一番でかいのかと。性格にめちゃくちゃ難アリだったらカバーしきれないけど、多少の難アリなら顔でカバーできてしまう現実。タイプかタイプじゃないかって大きい。
これからまだまだいろんな人と関わっていくから、きっとこの気持ちも変わってしまうのだろう。今は忘れられないって思ってても、いつか忘れちゃうんだろうな。忘れないにしても思い出さなくなるとか。
とにかく過去を悔やまずに、それはそれで良かったって割り切って今を大事にしましょう。と、自分に言い聞かせて、締めます。
忘却
先日、カードケースを紛失した。運転免許証にPASMOに近隣の図書館のカードが入っていた。
無くした、と母に言えば、運転免許証が悪用されると言われ、焦燥感に駆られた。が、無くしてすぐに紛失届けも出したし、あとは再発行だけである。そんなことはただ面倒を増やしたぐらいなのでどうでもよい。
京都で買ったカラフルなそれはわたしのお気に入りだった。ふとした時に視線をむけるだけでちょっとだけわくわくした気持ちになれた。久々にときめいて物を買ったと思えてた。
画像フォルダをスクロールしていたら、うきうきして撮った写真を見つけて悲しくなった。無くしてしまったから、新しいカードケースを買って、こいつのことはいつか忘れてしまうんだろうなあ、と。
わたしは愚かだから大切なことさえもたまに忘れてしまう。大切なこと、なんでもないような瞬間だって本当は覚えていたい。そんなの無理なんだろうけど。強く思ってたらきっと、前のわたしよりは鮮明に覚えていられるかもしれない。
生
先日、知人の訃報が届いた。
悲しみが一気に襲いかかり、呼吸をするのもままならなくなった。ぼんやりと自分の周囲の人が死ぬなんてことはないと思い込んでいたのかもしれない。衝撃的だった。と、同時に死への恐怖につつまれた。一気に真っ暗になってどうしていいかわからず、泣くことしかできなかった。泣いているうちに徐々に誰かに助けてほしいという思いがわきあがってきた。何をどうするわけでもなく、ただ話を聞いてほしくなったのだろう。でも、誰に何を話せばいいのか分からなかった。
その結果、呼吸に集中して落ち着くという手しかなかった。
落ち着いてくると、死の重みを感じていることに気づいた。他者の死から自分の生を実感している自分に。こんなふうにして、生きていることを実感していいのか、という思いに駆られた。ふがいなかった。
ただ、自分らしくちゃんと生きようと思った。
感覚
「あなた、感覚で生きすぎよ」
就職活動の面接で言われた一言だった。図星だったばかりにそれに抗う気持ちなのか、今まで自分の感覚や感情を大事にしよう。感覚で生きていこう。なんて思っていたが、本を読んでいたら、それだけだと自分は恥ずかしいんじゃないかとようやく気づいた。思考の面でも話し方でも。
話し方だと、感覚でたらたらと話すのも時には必要だが、社会に出るからこそは論理的に話せないと示しがつかない。なんなら社会人として終わっているんじゃないかとさえ思う。学生時代に退屈を覚えた先生の話しみたいな話し方になりたくない。とすると、どうしたらいいのか考えたが、ひとまずは私生活で論理的思考が身につくようにロジックツリーの練習でもしようか。独学で練習したらまたひどいことになりそうだけど。