ことば

言っていることや考えていることがころころ変わる。昨日はああ言ってたけど今日はこうかもしれない。なんて、めんどくさいんだろう。芯がなく人に影響されやすいためだろう。良くいえば柔軟性に富んでる?

そんなわたしは、人のことばにふっと心が軽くなったり、胸があつくなったりすることがある。その人の思いをつむがれたことばから感じたときにひどく。

だから、ことばはやっぱりすきだ。きらいになるときもあるけど。

人の考えや思いも出来る限り見たい。

言葉

 わたしは、人との関わりにおいて、言葉が重要なものであると思っていた。

 わたしと相手との関係性だって言葉で表したかった。恋心を持っている人との間でだけ。今思えばそれ以外の人たちは特段関係性を確かめることはなかった。そう考えるとすこしだけ、おかしいようにも思えた。言葉で表せない関係や気持ちもあるんじゃないか。すこしも気持ちがないのに好奇心、興味本位で自分に近づいてくる人はきもちわるく思えた。

 わたしが高校生の時に付き合っていた彼は0か100かで物事を考える人だった。彼の望む関係性を築けないなと感じたときに、別れを告げると、彼は「嫌いになったの?」と問うた。恋人としての感情を持って接することができないだけであって、私は彼のことは嫌いじゃなかった。でも、彼には伝わらなかった。

 わたしが今、すきな彼は関係性を言葉にすることを拒む。会えばあたたかい眼差しを向けてくれるし、わたしを思った行動をしてくれる。逢瀬は幾度となく重ねているし、気持ちも通っているとばかり思ってしまう。会えなくなってしまうならこのままでいいのだろうか、と薄っすら思ってしまう。

 言葉の壁、言葉の認識、言葉にできないきもち。言葉がきらいになりそうだ。

 彼のことは忘れられないからしんだことにしてしまおうか。

「お前って赤が似合わないな!」

小学校中学年の時によく一緒に遊んでいた男子から言われた言葉だった。

気づいたら赤を避けるように生きていた。“赤は私には似合わない”と言葉に呪いをかけられたように避けてきた。

でも突然、赤が着たくなった。それは友達に「赤、似合うと思うよ」と言われたからかもしれないし、私でも赤が着れるんだぞっていうよくわからない反抗心だったのかもしれない。

 

赤を纏ったとき、特別な気持ちになれた。

 

死にたくないくせに死にたいと言う理由

死にたいな〜なんて、本気で思ってないくせして脳内で呟いていた。なんでそんなことを思うのか自分にのみ当てはめて考えてみた。

 

ただ単純に打たれ弱すぎる

「これだから、ゆとりは」と言われかねないかもしれない。(一緒くたにまとめられてしまったゆとり世代の人ごめんなさい。)ゆとり世代に生まれたことは関係ない。私のメンタルの弱さ、これに尽きる。

今の自分を認めたくない

現在の自分の姿が求めている自分像に到底似つかわしくない。こんなはずじゃない、こんなの認めたくない、もっとやれるはずだ、と認めたくない。今という時間軸に存在している自分だけが都合よく死んでリセットされないかなあと思っている。だが本当に死んでほしいのはそんな感じでウジウジしているときの自分なのだろう。

なんにも考えたくない

あれこれと考えを巡らせているうちに全てがどうでもよくなって、面倒くさくなる瞬間がくる。そんなときの解決策が世界が終わるか自分が死ぬかの二択に絞られる。思考回路が正常に働いていない様子がわかる。

疲れている

上の項目に類似しているかもしれない。疲れている時は思考が働かなくなる。布団で眠りにつきたい。働きたくない。動きたくない。そんな思いに駆られる。そこから少し脱線すると、死んでしまえばいいのかと思う。

助けを求めている

しにたいな〜なんて言ってみて、かまってほしいのかもしれない。本当にそう思っている人がそんな風に受け取られないようにするためにも軽々しく、しにたいな〜なんていうのはやめよう。と言ってみたが、恐らくまた口にするのだろう。口にしたくなる時もある。ガチめのトーンで生きられない人もいるんだよとか言われると、あ、はい…みたいになってしまう。

生きたいの反対

本心はこれだろう。天邪鬼か!という感じ。

 

またポロッと口からこぼしてしまうのだろう。